根岸邸
1871年12月に建物・庭園を含めた4,500坪余を4,100両で購入し、改築して、齊泰が翌72年2月に移り住んだ。本郷邸は明治元年の上野戦争で焼失していたため、慶寧とその家族も同年4月に根岸邸に移る。
幕末を生き、明治を生きた加賀藩主の前田斉泰(なりやす)もまた能楽に精通した人物として知られる。維新後、東京の根岸で余生を過ごし、その根岸の自宅に、とうとう本格的な能舞台をまるごと造ってしまったのである。流石、加賀百万石のお殿様ともなれば、痛快極まりない。更に、茶目っ気もあり、定番の松と竹に加え、前田家の梅鉢紋(うめばちもん)の家紋にちなんで、舞台背景に梅を描かせたのである。1996(平成8)年に復原された染井能舞台をおさめた横浜能楽堂がオープン。現在に至っている。
松涛庵(しょうとうあん)
この建物は江戸時代末期、加賀藩12代藩主 前田斉泰(文化8年~明治17年/1811~1884)により、江戸根岸の隠居所「冨有園」の居室として建築されたものです。天井や柱が紅殻塗りであったことから「赤い間」と呼ばれていました。その後、鎌倉の別邸への移築を経て、昭和11年(1936)前田家16代 利為(明治18年~昭和17年/1885~1942)により、独立した数奇屋風の茶室として整備され「松涛庵」と命名されました。昭和54年(1979)金沢市内に移築され、平成13年(2001)金沢市が取得したもので、江戸時代末の風情を今に残す貴重な建造物である。
敷地の一角にお茶室がありました。江戸時代末期13代藩主の前田斉泰により、江戸根岸の隠居所「富有園」の居室として建築されたもの。昭和十一年に16代利為により独立した茶室として整備され「松涛庵」と命名。昭和五十四年に金沢市内に移築。
謡曲「富有園」
明治4年(1871)の東京移住後、前田斉泰は金杉村の根岸邸を隠居所とし、富有園と呼びました。明治 8 年には舞台を建設して、明治17年に亡くなるまで、種々の催能を老後の慰みとしました。斉泰作と伝える謡曲「富有園」ではその地の四季折々の景色をめで、上野や忍の岡など近隣の地名も織り込んで、神に守護されてゆるぎのない住居を自讃しています.
※現在は金沢市内に移築しております